恐怖を克服したい人へ。

宝彩有菜氏の瞑想を学ぶ瞑想会リーダーのひとり・やしおのブログです。

2000年に宝彩有菜氏に入門し、瞑想を続け、2021年の6月末に大きな区切りを付けました。 このブログでは、瞑想や生活を通して気付いたことを綴って行きます。 不揃いの文脈になることもありますが、ご了承ください。

マインドは必ず欲を起動し、他者に依存するように形作られる。
少なくとも、通常の人間社会で生まれ育てばそうなる。長い年月をかけて、そうなる仕組みを構築してきた。社会も、マインドも、双方がその方向性で発展した。
悟りに向かう道は、そんな「完璧に作られたマインドのループ的構造」のわずかな隙を突き、ループを脱却しようとするゲームみたいなものに相当する。
だから、ニッチな分野であるし、誰もが挑戦しようとはしない。
まずメリットが見いだせないから。
そこを敢えて挑戦していこうとするのが修行者なのだ。
この挑戦に勝つために必要なことは、たった一つ。
挑戦することを疑い、以前の社会に引き戻そうとするマインドの誘いを見破ること。
この世界はマインドが描いている神経電流が成すもの、ということがしっかり理解できていれば、これは達成できる。
何事もそうだが、悟りの道に関しても、基礎が大事。

自分が死ぬこと、それも肉体がというより、自分を自覚している心が無くなってしまうことは、通常はとても恐いものだろう。人々は、死の恐怖から逃れたいために、ここまで文明を発達させてきたといえるかもしれない。
……なんていうのは置いといて、心、マインドが容易に死を受け入れてしまうと、生き残れない生物になってしまうので、とにかく死は恐いものとしてインプットされている。そのインプットに対抗していくのが悟りの修行といえる。

修行の中核は瞑想だから、内容の詳細は省く。
で、私の経験からになるが、ある点に到達してからもしばらくは、マインドは依存や欲を継続しようとして、がんばってくる。
ところが、結局は全部自分の脳内で神経電流が生じて感じさせているものだということが理解できてきて、実際には何があるとか何が無いとか、有ると無いの概念すらも神経電流で、その神経電流という理解も神経電流で、と解ってくると、マインドが無くなることが恐いのも神経電流だと解る。
この辺は宝彩有菜氏の般若心経関連著作を読むと書いてある。
マインドは恐がるのが仕事なので、恐がらないマインドができあがると、世の中の全てのものが無くなっていく感じがするし、それに対する恐怖もないから、結果としてただ笑うだけになった。
そして、その笑いを、いつでも出せるようになった。
七福神の布袋さんは、それを具現化したものだとも言われているが、確かにそうかもしれない。
でもあんなお腹になるのは困るな……

私はたまにすごく人を怒らせてしまうときがあるのだが、よくよく考えてみると、同じタイプの人であることが分かった。
それは「臆病なのに、自分は絶対に正しい」と思っている人。
理由は簡単で、私の幼少期にはそういう大人ばかりが周りにいたから。太平洋戦争期の日本陸軍みたいな。
臆病なのに、というところが妙味で、本人は自分の臆病さに気が付いていない、という特徴も含んでいる。
私は子供だったので、とにかく弱いから、そういう偉そうな大人からかなり理不尽な扱いを受けた。暴力や罵倒が無い日は無かった。
そんな日々を生きるためには、子供としてはなんとかそういう大人に取り入らねばならず、いつのまにか彼らのご機嫌を取るのがうまくなった。
ところが、ここで私の中にプログラムの分化が起きていた。
ご機嫌を取るのがうまいのは自分のためであり、真に彼らを尊敬しているのではない。できれば離れていたい。
そして、ご機嫌を取れるということは逆に、激怒させることもできてしまうのだ。
これが成人してからも残っていたので、ところどころで彼らの逆鱗に触れた。(ただしこれはメリットがあって、気に入られすぎて執着されないように適度な距離を開けることができるのだ。怒らせてくる相手は、怖い相手というのと同義だから)

さてしかし、もうそういうプログラムもいらないのだからさっさと捨てて、他人の正義などに付き合わずやっていけばいいね。

(欲と依存は同じ意味のことを指すが、食欲や体温調整などの生命維持に関する本能と混同しやすいので、依存という用語を用いる。精神的な欲を依存という言葉に置き換える。)
さて、肉体を持って生きているからには、それを維持するためにプログラムが必要となり、我々人類はそのプログラムを良く発達させた種に相当する。
肉体は、存続することと、種を残すことをしなければならない。それがなければ最初から生命は存在しない。
肉体=生命を維持するために、より良い環境で生活しようというプログラムが発生した。この「より良い」というのが、上限のない欲となり、人の精神をどこまでも細密に分割していく。
それを逆にたどっていくのが、悟りの修行である。
つまり、肉体を持って生きている以上、より良く生活しようという欲は必要であり、そのプログラムに依存した状態が基本になる。
しかし修行が進むと、その依存にも気付き、外せるようになる。

マインドはすぐに不足要素を探し出し、それを補塡する仮想作業を始める。
だいたいは明確な答えが出ないので、仮想作業がオーバーワークになって疲弊する。
特に人間関係と経済問題はベストアンサーが難しいので考えすぎで疲れる。
しかしマインドは「ベストアンサーは、探せばどこかにある!」という無根拠な前提を持っているので、いつまでもそれを追い求めてしまう。
何事に対してもより良い答えを求めようとするのがマインドの性質なのだから、それが過度になって疲弊してきたら止めよう。
そのために、疲弊してもがんばる、のではなく、ちょっとの疲弊にも「マインドが頑張りすぎだな」と気付いてあげよう。
人に優しくすると同じく、自分に優しく。

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